2022/09/17
どうも、笠です。
2026年11月3日、僕は48歳になります。
馬年生まれの僕にとって、今年は5回目の年男にあたる。
12年に一度巡ってくるこの節目に、少し立ち止まって自分の人生を棚卸ししてみたいと思う。
次に年男を迎えるのは2038年、60歳の還暦だ。
その時には何者になっていたいのか。そしてこれまでの48年で、自分は何者になってきたのか。
長くなる。でも、12年に一度の記事だ。それくらい書かせてください。
こんにちは、ウエディング系webマーケターこと、笠正太郎のライブログ~カサログ~です。僕は関西本社で、ウエディング業界20番手くらいのバリューマネジメント株式会社という会社で結婚式の集客の仕事をしています。
このブログでは、普段はウエディング、マーケティング、地域創生や観光、旅など笠の専門領域について、大阪、歴史、サッカーなど笠の趣味の領域について書いてます!
年男とは何か——12年という単位で人生を見る
馬年は1978年・1990年・2002年・2014年・2026年・2038年と12年ごとに巡ってくる。
干支の一巡りである12年は、ひとつの時代の単位だと僕は思っている。
子供が生まれて中学生になるまでが12年。
中学入学から社会人になるまでが概ね12年。
ひとつの仕事を深く極めるのに必要な時間が、ざっくり12年と言われることもある。
今回、この5回の年男を人生の「章」として捉えてみることにした。
第一章(1978〜1990年):誕生と放浪——10回の転校が育てたもの
第二章(1990〜2002年):どん底とリスタート——大学中退から教壇へ
第三章(2002〜2014年):挑戦の始まり——VMGへの転職と土台作り
第四章(2014〜2026年):試練と飛躍——娘の難病、マーケター笠正太郎の誕生
第五章(2026〜2038年):世界へ——ジャパンミラクルを起こす12年
順番に振り返っていく。
第一章(1978〜1990年):誕生と放浪——10回の転校が育てたもの
1978年11月3日、名古屋に生まれる
1978年11月3日、文化の日。名古屋市で僕は生まれた。
その後の人生を語る上で欠かせないのが、10回にわたる転校の経験だ。
我が家は父の仕事の関係で引っ越しが多く、気づけば僕は生まれてから中学2年生までの間に、10回以上ステージを変えることになる。
名古屋で生まれ、幼稚園で福岡へ、川崎へ。
小学校は川崎の1年2年から始まり、3年1学期は横浜、3年2学期から4年は大阪市淀川区の東三国へ。
そして小学5年でアメリカ・カリフォルニア州クーパティーノ市(サンフランシスコから車で1時間ほど)へ渡り、帰国後は福岡市早良区の中学1年、そして大阪の東三国に戻って中学2年から——。
数えれば、幼稚園2園、小学校4校、中学校2校。アメリカでは現地校にも日本人学校(三育学園)にもダブルスクールで通った。
転校生がヒーローなのは初日の朝だけ
転校生というのは、最初の日だけヒーローだ。「新しい子が来た」という物珍しさで注目を集めるのは朝のうちだけ
あとはすぐに、孤独との闘いが始まる。
転校してすぐに考えることは毎回同じだった。
この学校に制服はあるか。休み時間は何で遊ぶのか。クラスにどんな人がいるか。担任はどんな先生か——。
みんな「日本の小学校はどこも同じ」だと思っているが、実はとても大きな違いがある。
文化、ノリ、ルール、ヒエラルキーの作り方。その全てがリセットされ、ゼロから構築し直す必要がある。
同じ自分なのに、あるクラスでは中心にいて、別のクラスではハブられていじめられる。
初めのうちは何も考えていなかったが、徐々に普通の小学生では考えなくて良いことを、工夫して考えるようになっていった。
強制的に課されたスクラップ&ビルド。これが後の人格形成に大きく影響していると、今は思う。
中学2年以降、学級委員、同窓会委員、幹事、直近ではPTA会長を5年務めるなど、ポジションを持つことへの意識が強い。
それも突き詰めれば、集団の中で自分の居場所を確保しようとする自己防衛本能の一つの表れなのだろうと思う。
2回目の年男(1990年・12歳)——アメリカで知った「世界の理不尽」
12歳、5回目のステージ変更はカリフォルニアだった。
アメリカの小学校で最初に気づいたのは、ここでは「キャラ」では突破できないということ。
日本の学校ではキャラクターや個性、面白さで居場所を作ることができた。でもアメリカの子供社会には、はっきりした人種ヒエラルキーがあった。
白人が頂点に立ち、黒人が続き、アジア系は下位に置かれる——という、今思えば理不尽極まりない序列の中に放り込まれた。
最も理不尽な環境だった。でも嘆いても仕方ない。
アジア系の仲間と連帯し、助け合いながら生き延びた。
この頃の経験が、後に「ジャパンミラクルをもう一度」という思いの原点になっているのだろうと今は感じている。
アジア人として世界で舐められた12歳の僕が、いつか世界で日本の価値を証明したいという種を持ったのかもしれない。
そして、もう一つの出来事。アメリカへの渡航は小学校5年生の時だったが、帰国が6月だったため、日本では突然「中学生」になっていた。
心構えはまだ小学生のまま、5月に入ってきたとある中学生には入学オリエンテーションで聞く話の1/10も教えてもらえず、中学生としての心構えもルールも誰にも教えてもらえないまま、僕は新しい中学校の扉を開けた。
この福岡時代は7カ月だったが結構きつかった。
アメリカ帰りということで、「アメリカ気取り」「帰国子女で調子に乗っている」という扱いを受けることもあった。
英語はある程度話せるようになっていたが、発音が綺麗ではないと言われ、英語部のメンバーの方がわかりやすいと笑われた。
感受性の強い思春期の12歳には、その一言がきつかった。
それ以来、英語に対して「蓋」をした。大学受験まで本気で英語を勉強せずに済んでしまうほど、人並み以上にはできていたが——自分にしかない経験という強みを、僕は封印してしまった。
この蓋が開くのは、なんと47歳になってから。インバウンド婚に挑戦する中で、まさか自分が英語を学び直すことになるとは。人生とはつくづく面白いものだと思う。
大阪の東三国に転校してからは、小学3・4年の頃と同じ学校に戻るという、人生で初めて「出戻り」を経験した。家族以外で自分の過去を知っている人間と出会う——これが初めての経験だった。それがどれほど安堵感を与えてくれるか、転校を繰り返してきた僕にしかわからないことかもしれない。
第二章(1990〜2002年):どん底とリスタート——大学中退から教壇へ
大学受験の失敗と、20歳のどん底。
高校を卒業し、大学に進んだ。しかし、大学受験は思うようにいかなかった。入った大学で学業よりもアルバイトに明け暮れ、単位をほとんど取らない日々が続いた。
指摘されるのが嫌で、大学2年生の春には家出気味に一人暮らしを始めた。でも資金はすぐに尽きる。9カ月で実家に戻った。
卒業に必要な単位は130ほど。2年間で取得できたのは11単位。どう計算しても卒業できる状態になく、20歳で大学中退を決めた。
この時期が、人生で最もメンタルが底にあった時期だと今でも思っている。社会からはみ出したような感覚。当時付き合っていた彼女とも別れ、アルバイトも辞め、「無」になった。
することがない。行く場所もない。目指すものも見えない。
祖母と司馬遼太郎、そして人生の再起
時間を持て余していた僕に、二世代で実家の1階に住んでいた祖母が一冊の本を勧めてきた。
司馬遼太郎の本だった。
お風呂上がりに30分読む習慣がついた。
司馬史観と呼ばれる、司馬遼太郎ならではの歴史の見方。
感受性豊かな20歳の僕はその世界観に強く引き込まれ、「この国この時代に生まれた意味を、命ある限りがんばろう」と思った。
特に心を揺さぶったのが「関ヶ原」だった。主人公・石田三成の、損得でなく「義」に生きる姿。この男は、勝てないとわかっていても義を貫いて戦場に立った。
現代でそれに近い生き方をするなら、公務員として国のために生きることではないか——。
そんな思いが湧いてきて、公務員試験を受けるための専門学校を探しに出身高校へ相談に行った。
1カ月後の特待生試験を受けることにした。久しぶりの勉強だったが、やることがない苦しさから解放される感覚
あった。勉強が苦痛ではなく、むしろ喜びに感じる自分を不思議に思った。
何かに夢中になれること、夢中になれるものがあること——それだけで人は幸せなのだと気づくのに、20年もかかった。
特待生試験で入学金無料、1年前期の授業料無料を勝ち取り、専門学生として人生のリスタートを切った。
高校の同窓生に「雷に打たれたみたいだ」と言われるほど、この2年間はとにかく勉強した。遊ばず、飲まず、ひたすら学んだ。
大阪府警合格、そして「教える」という道へ
結果、大阪府警の試験に合格した。警察官として日本を守る——そう決意していた時、先生から「教師にならないか」と声をかけてもらった。
ノンキャリアの警察官一人では、国を大きく動かすことはできない。
でも、自分の教え子をたくさん輩出して影響力を広げることはできる。
そして何より——自分が大学選択で失敗し、中退という経験を持つからこそ、「人生の分岐点に携わる仕事がしたい」という強い動機があった。
進路選択で後悔してほしくない。自分と同じ失敗を、教え子にはしてほしくない。
この思いが、後のリクルートへの転職にも、バリューマネジメントへの転職にも、一本の軸として貫かれていく。結婚式もまた、人生の大きな分岐点だ——と。
学歴で負けるなら、努力で負けるわけにはいかない
2001年、大原学園に就職した。大原法律専門学校大阪校で、公務員試験合格を目指すコースの担任となった。
1年目から担任を持つことになり、しかも受け持ったクラスは70名超。
1クラスが40人と決まっているわけでもないのか、と思いつつ、担任という仕事に全力で向き合った。
ここで気づいたことがある。
大原学園は年功序列の給与体系で、大学卒と専門学校卒では入社時点で2年分の給与差がある。
自分の方が明らかに仕事をしているのに、相手の方が給料が上——この理不尽な差が悔しかった。
その悔しさをバネに、とにかく結果を出した。すると24歳で課長補佐の役職がついた。
この時の気づき。
学歴は自分を守ってくれない。実力で勝たなければいけない。
短期の成果と同じくらい、知識をつけること、実力をつけることを重視するようになった。
誰よりも勉強して、誰よりも努力する。学歴で負けているのだから、努力で負けるわけにはいかない——。
気づけば、20歳の大学中退から27年、走り続けている。
3回目の年男(2002年・24歳)——クリスマスイブのプロポーズ
2002年秋。社会人2年目として受け持っていたクラスが公務員試験を受け終え、その年の11月に24歳の誕生日を迎えた。
そして、12月24日。クリスマスイブ。
4年間付き合っていた彼女(現在の妻)にプロポーズした。「結婚してください」——その言葉に、当時22歳の彼女は戸惑いつつ迷いながらYesと言ってくれた。
翌年には、大原学園の難波校オープニングスタッフとして異動が決まっていた。
新しい挑戦と、新しい家族の始まり。24歳の年男は、そんな季節だった。
第三章(2002〜2014年):挑戦の始まり——リクルート、そしてVMGへ
リクルートという場所
結婚し、2人の子どもが生まれ(2008年に長女、2009年に長男)、笠家は4人家族になった。
その間、2006年に株式会社日本エコシステムへ転職し、同年10月にリクルートへ。リクルートでは進学カンパニーの関西東海北陸グループで北陸エリアリーダー、その後奈良和歌山エリアリーダーとして走り続けた。
「人生の分岐点に携わりたい」という自分の軸は、ここでも一貫していた。進学という人生の分岐点を、メディアという立場から支える仕事だった。
2009年10月——バリューマネジメントという「土」
そして2009年10月、バリューマネジメント株式会社(VMG)に転職した。これが4社目となる。
入社した時、自分の中で決めたテーマは「土」だった。
「これから始まるVM生活の土台作り・基礎作りを年内で完結させるべく取り組みました。導入研修にて基礎知識や電話スキルを習得し、会場全体の動きやアシスタント業務・サロン業務を理解。最低限の業務は覚えました。」
(2010年2月号 社内報Value Motto 原稿より)
なぜVMGを選んだのか。当時を振り返った2015年の文章にこう書いた。
「ビジネスマンのピークを45歳とした時に、当時から15年後に最も成長しそうな会社、その成長と合わせて自分も成長できそうな会社を探していました。その時、偶然出会ったのがVMです。」
「業界を変える」というメッセージに共感した。自分がビジネスの場でどのレベルで通用するのか、しないのか。その答えを、VMGというフィールドで探したかった。
結婚式もまた、人生の分岐点だ。人生を伴奏する場所として、この会社はある。そう感じていた。
「水」から「花」へ——2010年の誓い
2010年、芦屋山手倶楽部(ASY)へ異動。「土」のステージを終え、次のテーマは「水」だった。
「水とはどの様な環境でも順応する、その存在が無いと困るという意味合いで、笠はこの1年でVMにとって『水』に当たる、そんな人材になります。」
そして目標として5つを掲げられていた。新規成約率40%、個人別成約総数会場No.1、月間成約数+施行数10件超、エージェント経由来館シェア20%以上、EQ(心の知能指数)の向上——。
芦谷山手倶楽部は日常業務に向き合える幸せを感じる特別な再生会場だったが、一生懸命、目標に向かって走った。
2010年7月には、法人営業部門(現:Party&MICE事業部)の立ち上げを担う。ゼロから作り上げる仕事。
何もないところから形を作る——「0→1」の営業を、自らの手でやり遂げた。
2010年の次世代経営幹部塾の課題でも、こんなことを書いていた。
「笠正太郎がなぜVMにいるのか、それは人生の目標である夢をかなえる為に、今思いつく、最も近道な環境・有効な手段だと考えるからです。一言で言うなら、『成長』の為です。人生を通じて追いかけたい夢、それは、『ビジネスマンとして父親を超える事』。」
父を超える。その言葉が、当時の自分を突き動かしていた。
第四章(2014〜2026年):試練と飛躍——娘の難病、マーケター笠正太郎の誕生
4回目の年男(2014年・36歳)——人生2番目のどん底
2014年は、仕事でGMに就任した年であり、同時に人生で2番目に凹んでいた時期でもある。
2010年〜2013年の法人営業部門立ち上げから3年で売上が8倍となり、飛ぶ鳥を落とす勢いだったと言える。
役職も3年間でメンバーからGMまで一気に7段階昇格した。
仕事の面では、確かな手応えがあった。でもそれと裏腹に、プライベートで大きな試練が訪れていた。
長女の難病
長女が5歳の頃のこと。休日に自転車の練習をしていて、帰り道に突然足の関節を痛がり始めた。
その後も痛みは消えず、病院に連れて行き、検査を繰り返した。
総合病院での検査の末に、医師から告げられた言葉。
小児特定疾患(難病)です。
小児リウマチ・シェーグレン症候群。免疫が自分自身を攻撃してしまう不治の病で、関節などが侵されていく。わずか5歳の我が子に、治らない病気があると知らされた時の気持ちは、言葉にするのが難しい。あまりにも不憫で、悲しみに明け暮れた。
仕事にも明らかに影響が出ていた。仕事帰りに家に帰り、娘の様子を見るたびに胸が痛くなった。
飛ぶ鳥を落とす勢いで昇格してきたのに、メンタルが安定しない自分が情けなかった。2014年は苦しい1年となった。
関西で一番この分野に精通しているとされる大阪医科大学附属病院の岡本先生に診ていただくことになり、必死に調べた。
生物学的製剤(バイオ薬)を使えば、病気の進行を止めることができると知った。日本では認可が下りていない薬もあり、アメリカに治療に行くことも本気で検討した。
ヒュミラという薬を使った時期、最もメンタルにきた。家で子供に注射して薬を打つ——。
親が我が子に注射するのだ。覚えなければと思いつつ、どうしても娘に注射することができず、妻にめちゃくちゃ怒られた(汗)。
最初は薬が効かず、容態は悪化していった。松葉杖、ギブス、車椅子——。
目に見えて悪くなっていく娘の姿を前に、祈ることしかできなかった。
しかし、病院と薬の力で、その後徐々に容態が安定してきた。
2026年現在も通院は続き、薬も飲んでいる。
でも今は「寛解」——症状が止まっている状態にまで来ることができた。医学の発展に、心から感謝している。
娘は病気と一生付き合うことになる。大人になると薬代も高額になる。
2014年の時点でそれがわかっていたから、人より稼がないと娘の命を守れないと思った。人一倍一生懸命働くことを、この時決めた。
この決意が、その後の笠正太郎のエンジンになっている。
マーケティングの師、そして「自社集客」というミッション
2014年のGM就任と共に、マーケティング部へ異動した。これが今につながる転機だった。
マーケティングの師匠とも言える役員・李さんに2年間、マーケティングの本質を教え込んでもらった。
この2年間で得た知識と視点が、今の自分の基盤になっている。
いつか自分も、誰かの人生に通じるくらいのスキルを伝承できる存在になりたいと思っている。
そして2016年、VMG代表の他力野さんから「自社集客」のミッションを与えられた。
外部媒体に依存せず、自社でお客様を集める。
一見シンプルなこのミッションが、どれほどの変革をもたらすか
——当時の自分にはまだわかっていなかった。
でも、やってみた。試行錯誤した。転んで、学んで、また走った。
その結果、今年で11年目を迎えるこの取り組みが、ウエディング業界で「WEBマーケターといえば笠正太郎」と認知してもらうことにつながった。
2015年の「なぜVMで働くのか」という文章に、こんな言葉を書いた。
「最上志向、質の追求、進化、破壊と創造。毎年、自己重要感を感じる事ができる経験、涙を流す程、悔しさを感じる体験がある。VMが4社目になりますが、過去3社には無い時間があります。時間の経過と共に味と深みを感じる会社。同じ業務でも同じ業務とはならない、1000回と1001回目でも新しい気づきがある。」
「他力野さんの言葉、『働きやすい会社を作ろうと思わない。働きがいのある会社を作る』。
このコンセプトがある限り、自分はVMファンであるのだろうと思います。」
入社から6年が経っていた。入社時に描いていた未来よりも充実した今があり、未来にさらなる期待を持っていた。
2023年〜2026年——加速する変化と世界への扉
2023年12月にヒルサイド神戸施設GMを兼務。
2024年4月には婚礼事業部部長も兼務し、VMGの婚礼事業全体を見る立場となった。
そして2026年2月、バリューマネジメント株式会社COOに就任した。
思えば、2009年に「土」から始まったVM生活が、16年をかけてCOOという形になった。
「水」になり、「花」になり、根を張り、幹を太くし——そしてここまで来た。
第五章(2026〜2038年):世界へ——ジャパンミラクルを起こす12年
5回目の年男(2026年・48歳)——世界の扉を開ける年
2026年7月。この1年の海外出張が5回を超えた。年末までにあと4回海外へ行く。
4月にはマカオでDWP Congress 2026(世界最高峰のウエディングカンファレンス)に参加。
70カ国以上から350名超のウエディングプロが集まる場で、日本のウエディングの可能性と、同時に「ガラパゴス化」という現実を痛感した。
5月にはシンガポールでWedding Wonderlandに単独ブース出展。2日間で101組のWhatsAppと15件のパーティネタを獲得した。
日本から5000km離れた場所で、日本の婚礼を語る。1年前には想像もしていなかった自分がいる。
「誰がが突破しなければ縮小する日本の婚礼市場に未来がない。日本は人口減少するが、世界の人口は2060年まで増え続ける。世界市場をハックできれば婚礼産業の未来が明るくなる。今、ホテル業がそうであるように、婚礼産業を再び成長産業とするべく、突き進みたい。」(X投稿より)
そして、DWPコングレスで得た気づきが加わった。
「今年に入り『パーティで人生を豊かに』という点も人生を通じてやりたいことに加わった。グローバルスタンダードを取り入れることで日本のパーティはもっと変わる。」
世界を知れば知るほど、日本の可能性を感じる。そして同時に、今すぐ動かなければという焦りも感じる。
48歳から50歳——知命への2年間
50歳は「知命」と呼ばれる。孔子の言葉「三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る」
——この言葉が、今の自分の道標になっている。
48歳から50歳までの2年間が、特に大事だと思っている。
天命を知る50歳を迎えるために、この2年間で何をするか。
世界に通じるビジネスマンになる。 それが今の目標だ。
そのために必要なことのひとつが、英語だ。
12歳の時に自ら蓋をした英語に、47歳でもう一度向き合い始めた。
まさかの展開だが、人生とはそういうものだ。
過去の自分が封印したものを、未来の自分が必要とする。
もう一つは、健康だ。
昨年から続く海外出張の頻度は、想像以上に体力を要する。
気力は充実している。でも体力はそれを支えるものだ。
1日1万歩を目標に歩く習慣をもう5年続けているが、これからはさらに健康を意識した生き方をしていかなければならない。
2038年・60歳の自分へ——次の12年でやり遂げること
6回目の年男となる2038年、60歳の還暦。その時に何者になっていたいか。
① 日本のウエディングが世界で認められていること
世界のウエディング業界は成長産業だ。でも日本では、ウエディング業界は斜陽産業だと思われている。このギャップを埋める。
日本の人口は減少しても、世界の人口は増え続ける。インバウンド婚が根付けば、僕たちが生きている間は業界が安泰となる可能性がある。そのための布石を、この12年で打ち続ける。
② 「パーティで人生を豊かにする」。この文化を日本に作る
結婚式だけではない。誕生日、卒業、退職、記念日——人生には祝うべき瞬間がたくさんある。
グローバルなパーティカルチャーを日本に取り入れることで、日本のパーティはもっと豊かになれる。
父はファーストフードを通じて日本の食文化を変えた。
僕はインバウンド婚とグローバルなパーティカルチャーを通じて、日本のパーティ文化を変える。
③ 60歳で創業社長になる
2021年にXに投稿したやりたいことリストには、こんな言葉が並んでいる。
ウエディング業界の業界変革を
ウエディング業界NO1 WEBマーケターに
人生を伴奏する企業に
日本の古き良きを発掘して世の中に
越境ECでジャパンブランドを世界へ
ジャパンミラクルを起こす
100歳まで生き、生涯現役
これをひとつひとつ、実現していく。
父を超えるということ——40代になって気づいたこと
若い頃から「ビジネスマンとして父親を超える」ことを夢として語ってきた。
父は50代前半でバーガーキングの日本再上陸時の社長を務め、社会的インパクトという意味では、同じ年齢で父を超えることは難しいかもしれない。父は65歳で仕事を引退した。
でも、僕には作戦がある。
うさぎと亀方式で、100歳まで現役で走り続ける。
ゆっくりでも止まらなければ、いつかは追いつき、追い越せる。父は雇われ社長だったが、僕は創業社長になる——それも一つの戦略だ。
ただ、40代になって感じることがある。「父を超える」は今も大事な原動力だ。
でも、何のために父を超えるのか——その問いが、以前より重くなってきた。
自分のために超えるのは、勝手にやればいい。
でもそれだけでは足りない。
父を超えるほどの実力をつけた先に、何を社会に還元するのか。
そこが、本当の問いだと思うようになった。
- 世界のウエディング業界が成長産業として認識している日本のウエディングを、斜陽産業だという先入観から解き放つこと。
- 日本の人口が減っても、世界市場を開けば婚礼産業は成長できると示すこと。
- グローバルなパーティカルチャーで、日本の文化をもっと豊かにすること。
これが、60歳の自分が社会に還元すべきものだと今は思っている。
まとめ——48歳の誓いと、これからの笠正太郎
人生を棚卸しすると、いくつかの「伏線」が見える。
- 10回の転校で身につけた、ゼロから居場所を作る力。
- アメリカで経験した理不尽な人種差別が生んだ、ジャパンミラクルへの原動力。
- 20歳のどん底で出会った司馬遼太郎が与えた、「義に生きる」という軸。
- 大学中退の悔しさが生んだ、誰よりも努力するというエンジン。
- 娘の難病が決めさせた、人一倍稼いで命を守るという覚悟。
- そして今、47歳から英語を学び直し、世界に飛び出している自分。
- 12歳の時に封印した英語を、47歳で開けることになるとは思わなかった。でも人生には、こういう伏線回収がある。その時には気づかなかったことが、何十年も後になって意味を持つ。
2010年に「土・水・花」と誓った。その「花」が咲き始めているとすれば、今がその時かもしれない。でも花は、咲き続けなければならない。
次の12年——48歳から60歳まで——を、僕はこう生きる。
世界に通じる日本のウエディングを作る。
パーティで人生を豊かにする文化を日本に根付かせる。
100歳まで現役で、走り続ける。
60歳の還暦に、どんな顔でこの記事を読み返すだろうか。その日が楽しみだ。
書き残した言葉で締めたい。
2010年、36歳、VMGの次世代経営幹部塾の課題にこう書いた。
「笠正太郎がVMにいる理由は『成長』できる環境があると思うからです。成長できる環境となる様に、会社自体を常に成長させなければならない。その為には労力をいとわない。なぜならその成長の先には人生をかけてチャレンジしたい世界があるからです。イノベーションを生みます。」
あれから16年。あの言葉に嘘はない。
バリューマネジメント株式会社 COO 笠正太郎
X:@qtaro_s53 Instagram:@shotarokasa
プロフィール
笠 正太郎(Kasa Shotaro)
1978年11月3日生まれ。名古屋出身(その後10回の転校)。
バリューマネジメント株式会社 COO。
■経歴
2001年:大原学園 入社(大原法律専門学校大阪校 教務部)
2004年:大原法律専門学校難波校 教務部 課長補佐
2006年:株式会社日本エコシステム 入社
2006年:株式会社リクルート 入社(進学カンパニー)
2009年:バリューマネジメント株式会社 入社
2010年:Party&MICE事業部 立ち上げ
2014年:マーケティング部GM
2023年:マーケティング部GM 兼 ザ・ヒルサイド神戸施設GM 2024年:マーケティング部GM 兼 婚礼事業部長 2025年:マーケティング部GM 兼 統括営業部長 2026年:バリューマネジメント株式会社 COO
■モットー
「日本の古き良きを世の中に」「ジャパンミラクルを再び」「100歳まで生き、生涯現役」「人生、人の3倍謳歌する」
信じていること
「思考は現実化する」「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」「30にして立つ、40にして惑わず、50にして天命を知る」